ヘルスケア × 生成AI

手段でなくなった身体に、残るもの

── 剝がしても残るものが、存在の芯になる

池田 武弘(closip)|

移動も、調べ物も、書くことも。かつて身体を必要とした営みが、次々に身体を通らずに済むようになったとき、身体には何が残るのか。感じていること、自分が動かしていること、そしてその二つが「決める」を支えていること。手段の衣を剝がした先に現れる、身体の芯を見つめます。

動かさなくても、済んでしまう

かつては、何かをするたびに、身体が必要でした。

打ち合わせをするには、電車に乗り、駅から歩き、その部屋まで自分の身体を運ぶ必要がありました。何かを調べるには、書店や図書館に足を運び、棚のあいだを歩き、本を手に取ってページをめくりました。考えをまとめるには、机に向かい、手を動かして書いては消し、また書きました。何かをするためには、いつも身体という乗り物を、どこかで一度は通らなければならなかったのです。

けれど、いまはどうでしょう。打ち合わせは、椅子に座ったまま画面の中で始まります。調べ物は、指先で問いを打ち込めば、歩かずとも答えのほうからやってきます。文章は、手を動かす前に、たたき台が目の前に現れます。かつて身体を経由しなければ届かなかった場所へ、私たちはいま、身体を通らずに、まっすぐたどり着けるようになりました。

これは、たしかに便利なことです。私自身、その恩恵を日々受け取っています。けれど、ある時期から、私の中に小さな問いが芽生えるようになりました。移動も、調べ物も、書くことも——かつて身体を必要としたことが、次々に身体を通らずに済むようになっていったとき、身体には、いったい何が残るのだろう、と。

これまでの三篇では、私はもっぱら「脳」の話をしてきました。AIと働く脳が、どう疲れ、どう回復するのか。けれど今回は、脳から少し離れて、その脳を乗せている身体そのものに、目を向けてみたいと思います。手段としての役割を、一枚また一枚と剥がされていったとき、最後に残るのは何か。剥がしきったあとに、それでも手放せずに残るものがあるとすれば、それこそが、身体の芯なのではないか。そんなことを、考えてみたいのです。


身体は、透明だった

考えてみれば、私たちはふだん、自分の身体をほとんど意識していません。

歩いているとき、私たちは「いま右足を出して、次に左足を出そう」とは考えません。文字を書くとき、指の一本一本にどう力を入れるかを、いちいち命じたりはしません。健康な身体は、驚くほど静かです。要求もしなければ、主張もしない。ただ、こちらの意志に従って、なめらかに働いてくれている。医療や哲学の分野では、こうした状態を、身体が「透明」であると表現することがあるそうです。ガラスのように、そこにあるのに、意識を素通りしてしまう。私たちは身体を通して世界を見ているのであって、身体そのものを見ているわけではないのです。

だからこそ、私たちはこれまで「身体に何が残るか」などと、わざわざ問う必要がありませんでした。身体は、目的を果たすための透明な乗り物として、背景に退いていればよかった。移動という手段、作業という手段、その役目をこなしているかぎり、身体は静かなままでいてくれたのです。

ところが、その手段が次々に外されていくと、奇妙なことが起こります。透明だったはずの身体が、かえって輪郭を現しはじめるのです。

一日の仕事を終えて、ふと立ち上がったとき、腰や首が思いのほか固まっていることに気づく。夕方、歩数を見て、これほど働いたのに、ほとんど歩いていなかったのだと、薄く驚く。一日じゅう画面ごしに人と話したのに、誰にも「会った」という手応えが、なぜか残っていない。仕事が終わってログアウトしても、同じ部屋にいるものだから、終わった気がしない。——こうした感覚は、身体が働いていないから生まれるのではありません。身体が、手段としての役目から外されて、行き場をなくしたときに、はじめて前景に現れてくるのだと思います。

透明であることは、身体が健やかに使われている証でした。けれど、使われ方が変わったいま、身体はその透明さの裏側から、静かに何かを訴えはじめている。その訴えに耳をすませることが、この問いの入り口になります。


剝がしても、残るもの① ── 感じている、ということ

では、手段を剥がされた身体に、最初に残るものは何でしょうか。私は、それは「感じている」という、ただそれだけのことだと思います。

いま、この文章を読んでいるあなたの身体は、絶えず内側から信号を送っています。心臓が打っている。呼吸が続いている。どこかが少し重い、あるいは心地よい。喉が渇きはじめている。こうした、身体の内側の状態を感じ取る感覚を、専門的には 「内受容感覚」と呼ぶそうです。外の世界を見たり聞いたりする感覚が外に向いているのに対して、この感覚は、ひたすら自分の内側へ向いています。

この内受容感覚について、私が心を惹かれた事実がひとつあります。身体の内側を感じ取るこの仕組みの一覧に、脳そのものは含まれていないというのです。心臓も、肺も、胃も、皮膚も、その状態を私たちは感じ取れる。けれど脳は、自らを内側から感じることはしない。つまり、いま私が向き合おうとしているこの感覚は、これまで三篇で語ってきた「脳」の話の続きではなく、脳の外側に広がる、まったく別の領域の話なのです。

そして、ここにこそ、身体が最後まで手放さないものがあります。

私の思考は、いまやAIが驚くほど拡張してくれます。調べ、まとめ、下書きし、時には私自身より的確な言葉を差し出してくれる。けれど、私の身体が「いま、どう感じているか」は、AIには感じられません。暑い、重い、心地よい、もう限界だ——この内側の声は、どこまでいっても、私だけがアクセスできるものです。もちろん、心拍数や体温を、機械が外側から数値として記録することはできます。けれど、その数字は、私が「生きている」と実感していることそのものではありません。認知科学の知見をたどっていくと、この「生きているという実感」は、身体が発する無数の信号と、それを絶えず受けとめる働きとのあいだからしか生まれず、外側から数値をなぞるだけでは、原理的に再現できないのだと言います。

以前、私はこのシリーズの最初のほうで、AI時代にはたやすく明け渡せない力として「自分の状態を認知する力」を挙げました。あのときは、脳の疲れに気づく力として書きました。けれどいま、その力はもっと深いところまで及んでいると感じます。自分がいま、どう感じているか。生きているとは、どういう手応えなのか。それを内側から知っているのは、最後まで、この身体だけなのです。


剝がしても、残るもの② ── 自分が、動かしている

身体が最後まで手放さないもの。その二枚目は、「自分が動かしている」という感触です。

私たちが腕を上げるとき、脳は筋肉に「腕を上げよ」と指令を送ります。このとき脳は、同じ指令のもう一枚の写しを、自分自身にも送っているのだそうです。「いま、腕を上げる指令を出した。だから、こういう感覚が返ってくるはずだ」と、あらかじめ予告しておくように。そして実際に腕が上がり、予告どおりの感覚が返ってくると、脳はそこで確かめるのです。——たしかに、いま動かしたのは私だ、と。

この照合は、私たちが身体を動かしているあいだ、絶え間なく、ごく短い間隔で繰り返されています。ふだんは、まったく意識にのぼりません。けれど、この静かな確認のくり返しこそが、「自分がこの身体の操縦席に座っている」という、揺るぎない感覚を、下から支えているのです。歩く、握る、立ち上がる。そのたびに私たちは、意識しないまま、自分が世界に触れているという手応えを、受け取り直しています。

ところが、身体を通らずに物事が進むとき、この照合は起こりません。

指先で軽くクリックするだけ、あるいは声で指示するだけで、複雑な作業が完了してしまうとき、全身に向けた運動の指令も、その写しも、生まれません。成果は、たしかに私の意図から出たものです。けれど、そこには「自分の身体で、世界に働きかけた」という、あの生々しい手応えが伴わない。理屈のうえでは「これをさせたのは私だ」と分かっていても、身体の底から込み上げてくる「私がやった」という実感は、薄いのです。こうしていくと、人は少しずつ、みずから世界に手を出す者から、差し出された成果をあとから受け取り、うなずくだけの者へと——いわば、観客の側へと移っていきます。

私はこのシリーズの二篇目で、AIと働く人が、依頼する側から、確かめ、評価し、監査する側へと、いつのまにか受け身に回っていく姿を書きました。あれは、画面の中で起きる、頭の受動化でした。けれど、その下には、もっと深い層があったのだと、いまは思います。頭だけでなく、身体そのものが、能動性を手放していく。世界に触れ、押し返され、確かに動かしているという、あの根っこの手応えが、静かに痩せていくのです。

だからこそ、私はときどき、自分の脚で立ち、自分の意志で身体に負荷をかける時間を、手放したくないのだと思います。そこでは、誰にも、何にも、主導権を明け渡していません。動かしているのは、まぎれもなく私です。身体を動かすという、ただそれだけの行為の中に、能動であることの純度が、いちばん濃く残っているのです。


身体は、判断を支えていた

感じていること。自分が動かしていること。剥がしても残るこの二つは、実はもっと大きな何かの土台になっている、と私は考えています。それは、「決める」という働きです。

難しい選択を前にしたとき、私たちは、理屈だけで決めているわけではありません。いくつもの選択肢を眺めているうちに、ある案には、なぜか胸のあたりがざわつく。別の案には、すっと気持ちが落ち着く。この、言葉になる前の身体の反応が、無数の選択肢をあらかじめ選り分け、「これはやめておこう」「こちらならいけそうだ」と、私たちの判断を静かに導いています。決断とは、純粋に論理の作業であるように見えて、その足元は、身体がこれまで積み重ねてきた反応の記憶に支えられているのです。

このことを、私は逆側から知りました。事故や病気で脳の前頭葉の一部——腹内側前頭前野と呼ばれる領域を損なって、この身体の反応を判断に呼び出せなくなった人は、どうなるか。知能はまったく衰えていない。論理を組み立てる力も、そのまま残っている。それなのに、その人は決められなくなるのだそうです。昼食に何を食べるかといった、ごく小さな選択にすら、あらゆる可能性を延々と比べ続けて、いつまでも結論にたどり着けない。理屈だけがどれほど精緻でも、身体の後ろ盾を失った判断は、宙に浮いてしまう。——この事実は、私たちが「考えて決めている」と信じているその働きが、どれほど身体に負ぶさっていたかを、鮮やかに教えてくれます。

私は前の篇で、整った脳こそが、最後にものを言う判断力を支えるのだと書きました。けれど、その脳のさらに下に、もう一枚の土台があったのです。身体です。AIがどれほど賢く答えを差し出しても、その答えを引き受け、最後に「これでいく」と決めるのは、人間の側に残された仕事です。そして、その決断そのものが、実は身体に支えられている。だとすれば、身体を手段から外していくことは、ただ運動不足を招くという話にとどまりません。それは、私たちの決める力の、いちばん深いところに触れているのです。

このことに、もっとも自覚的な場所のひとつが、医療の現場だと思います。

いま、医療でも生成AIの活用が進んでいます。けれど、そこで歓迎されている使われ方をよく見ると、興味深いことに気づきます。たとえば、医師と患者の会話を、AIがそばで聞き取り、記録に起こす。すると医師は、画面に文字を打ち込むことから解放されて、その分の注意を、目の前の患者に戻すことができる。ここでAIが担っているのは、身体を「消す」役割ではありません。むしろ逆で、記録という作業を機械の側に寄せることで、人間の注意を、もう一度、身体のほうへ引き戻しているのです。

診察とは、本来、患者が自分の身体を差し出し、医師がそれに向き合う営みです。どれだけ遠隔化が進んでも、症状が最後に現れるのは身体であり、言葉にならない不安を伝えるのも、また身体です。AIは、身体のまわりにあった雑務を引き受けることはできる。けれど、身体そのものと向き合う中心は、人間の手に残される。医療という、人の命がかかった現場が引いているこの線は、私たちすべてに通じる問いを、静かに示しているように思います。何を身体から外してよく、何は、身体に戻すべきなのか、と。


手段でなくなった身体は、目的になる

こうして、手段としての役割を一枚ずつ剥がしていくと、最後に、剥がれずに残るものがありました。

いま、自分が感じているということ。いま、自分が動かしているということ。そして、その二つが、決めるという働きを、いちばん深いところで支えているということ。これらは、どれも「何かのため」の能力ではありません。移動のためでも、作業のためでも、成果のためでもない。ただ、私がここに、生きて在るということ、そのものです。手段の衣をすべて脱がせたあとに残ったのは、道具としての身体ではなく、私という存在の芯にほかなりませんでした。

考えてみれば、これは不思議な逆説です。AIが賢くなり、テクノロジーが行き届くほど、私たちは身体を使わずに済むようになる。にもかかわらず、そうなればなるほど、身体は手段の座から降りて、それ自体が目的として、輪郭を濃くしていく。便利さが極まった先で、私たちはむしろ、「自分は一個の身体を持った存在なのだ」という、ごく当たり前のところへ、静かに還っていくのです。

だとすれば、身体を動かすということは、もはや健康法でも、脳のための手段でもなくなります。それは、明け渡せないものを、自分の手元に確かめておく営みです。AIにどれだけ多くを委ねても、感じているのは私であり、動かしているのは私であり、最後に決めるのも私である。その根っこを、身体を通して手放さずにいること。それが、AIと共に生きる時代の、静かな背骨になるのだと思います。

そして、ここまで私は、身体を「自分の内側」に向けて見つめてきました。感じ、動かし、決める——そのどれもが、私の内で完結する営みでした。けれど、身体にはもうひとつの顔があります。内に残ったものを、外へ、他者へと差し出す顔です。この身体は、いったい何を、外に向かって伝えられるのか。それは、次に考えてみたいと思います。