ヘルスケア × 生成AI

満ちて、手渡す身体

── AIに委ねられない、共振という仕事

池田 武弘(closip)|

用件はすべて伝わったはずなのに、何かが伝わっていない。身体は、言葉や情報とは別の何かを外へ手渡していた。フィットネスの現場で起きる「コネクト」を手がかりに、満ちた身体だけが持つ、AIに委ねられない働きを問う。

内に残したものを、外へ

前回、私は自分の身体を「内側」に向けて見つめました。感じ、動かし、決める——そのどれもが、私の内で完結する営みでした。けれど、身体にはもうひとつの営みがあります。身体の内側にあるものを、外へ、他者へと差し出す営みです。

考えてみると、私たちはいま、身体を「通さずに」他者とやりとりする方法を、次々と手に入れています。画面ごしでも会話はできます。チャットで用件は伝わり、会議も指示も、身体をその場に運ばなくても成立してしまう。ITと生成AIは、人と人のあいだから「物理的にそこに居ること」を、驚くほど滑らかに省いていきました。

しかし、ときどき、こう感じることがあります。用件はすべて伝わったはずなのに、何かが伝わっていない。言葉は届いた、情報は共有された、結論も出た。なのに、対面で話したときのような手応えが、どこかに残らない。この「何か」の正体を、私はしばらく、うまく言葉にできずにいました。

おそらく身体は、言葉や情報とは別のものを、外へ手渡していたのです。会話の中身とは違う次元で、その場に居る身体そのものが、絶えず何かを発し、受け取り合っていた。それが省かれたとき、内容は届いても、その「何か」だけが抜け落ちる。

では、その手渡されていたものとは、いったい何なのか。私はここで、自分がもう長いこと身を置いてきた、ある現場のことを思い出します。言葉より先に、身体と身体が直接つながる——そういう瞬間が、はっきりと存在する場所のことを。

コネクトという、一体になる瞬間

私はフィットネスのスタジオで、インストラクターとして人前に立ってきました。数十人が同じ空間に集まり、音楽がかかり、いっせいに身体を動かす。その現場には、言葉では説明しづらい、けれど確かに存在する瞬間があります。

私たちはそれを、コネクトと呼びます。参加者とインストラクターが一体になり、場の熱がひとつに溶け合う——そういう状態のことです。うまくコネクトできた日は、スタジオ全体がひとつの生き物のように呼吸します。私が声を出せば場が応え、場が高まれば私がさらに引き上げる。誰が引っ張っているのか、もう分からなくなる。その循環のなかで、参加者の表情が変わり、動きが変わり、部屋の温度そのものが上がっていくのが、はっきりと分かります。

けれど、このコネクトは、いつでも起こせるわけではありません。同じプログラム、同じ振り付け、同じ声かけをしても、見事に一体になる日もあれば、最後まで熱が上がりきらない日もある。何が、その分かれ目をつくっているのか。長く現場に立つほど、私はこの問いを手放せなくなりました。

ひとつ、はっきり言えることがあります。コネクトは、インストラクターが一方的に「起こす」ものではない、ということです。私がどれだけ完璧に動いても、それだけでは場は燃えません。参加者の身体があり、その日の音楽があり、部屋の空気がある。それらが互いに響き合って、初めてコネクトは生まれる。それは「送信」ではなく、「共振」なのです

面白いことに、この共振には、音楽が大きく関わります。良い曲を使ったクラスは、それだけでコネクトしやすい。曲が持つエネルギーが、私と参加者のあいだに、あらかじめ一本の橋を架けてくれるのです。コネクトとは、私一人の技量の産物ではなく、その場にあるすべてが同じ方向へ揃ったときに、場そのものから立ち上がってくる現象なのだと思います。

閉じた身体は、つながれない

コネクトが起こる条件を言葉にするのは難しい。けれど、コネクトが起こらない条件なら、私ははっきりと挙げることができます。長く現場を見てきて、「この人のクラスは、どんなに良い曲でも熱が上がらない」というインストラクターには、共通した特徴があるのです。

ひとつは、本人がそもそも楽しんでいないこと。仕事だから、こなしている。その内心は、隠しているつもりでも、驚くほど正確に場へ伝わります。ふたつめは、声を出さないこと。みっつめは、参加者とアイコンタクトを取らないこと。

並べてみると、これらに共通するものが見えてきます。どれも、身体を外へ差し出していない、ということです。声も、視線も、そして楽しんでいるという内側の熱も、すべて自分のなかに引っ込めたまま、動作だけを正確になぞっている。言ってみれば、身体が閉じているのです。そして閉じた身体は、どれだけ振り付けが正しくても、場とつながることができません。

なぜ、閉じているだけで伝わってしまうのか。ここには、私たちの身体が持つ、ある性質が関わっているように思います。人は、目の前の相手の表情や声に、頭で考えるより先に反応してしまう生き物です。相手が笑えば、こちらの表情もわずかにゆるむ。相手が張り詰めていれば、こちらも知らないうちに身構える。この反応は、意識が判断を下すよりも速く、ほとんど自動的に起こります。

だとすれば、「閉じている」という状態もまた、隠しようがありません。声を出さない人の、その出さなさ。視線を合わせない人の、その合わせなさ。楽しんでいない人の、その楽しんでいなさ。それらは沈黙のうちに、けれど確実に、参加者の身体へと届いてしまう。私たちの身体は、伝えようとしないことまで、伝えてしまうのです。

コネクトとは、裏を返せば、その場にいる全員が、少しずつ身体を開いていく現象なのかもしれません。開いた身体だけが、響き合うことができる。閉じた身体は、その輪の外に、静かに取り残されるのです。

満ちていないものは、伝わってしまう

ここまで読むと、コネクトの条件は単純に見えるかもしれません。楽しむ。声を出す。目を合わせる。身体を開く。それさえできれば、場は温まるのだ、と。

けれど、話はそう簡単ではありません。私自身の経験から、はっきり言えることがあります。声を出し、視線を配り、笑顔をつくる——そうした「開いている」ふるまいを、すべて丁寧に実行しても、それでも熱が上がりきらない日がある。逆に、技術的にはまだ荒削りなインストラクターのクラスが、なぜか驚くほど盛り上がることもある。ふるまいのチェックリストを満たすことと、コネクトが起こることのあいだには、どうしても埋まらない一段の差があるのです。

その差が何なのかを、私は考え続けてきました。そして、たどり着いた答えは、あまりに素朴なものでした。その日の自分が、満ちているかどうか。これに尽きるのです。

私自身に、内側から溢れてくるエネルギーがある日は、放っておいても場が上がっていきます。反対に、疲れていたり、気持ちがどこか別のところにある日は、どれだけ声を張り、笑顔をつくっても、レッスン全体の熱量が、なぜか低いところで止まってしまう。技術で取り繕うことはできます。けれど、取り繕った熱は、取り繕った熱として、参加者の身体にちゃんと伝わってしまうのです。

これは、決して気持ちのいい話ばかりではありません。身体が正直だということは、良いものだけでなく、隠したいものまで、正直に配ってしまうということだからです。その日の疲れ。「仕事だからやっている」という内心。うまくいかない焦り。本人がどれだけ押し隠そうとしても、身体は、それらを場へと静かに漏らしていく。身体は、隠せない。私はこのことを、何度も現場で思い知らされてきました。

つまり、コネクトを最終的に左右しているのは、テクニックではなく、その人がいま、どういう状態で「そこに在る」かなのです。開いたふるまいは、入り口にすぎません。その奥にある、満ちているか、枯れているか。身体は、その一番隠したい部分を、いちばん正直に伝えてしまうのです。

AIは、満ちることができない

ここまで来て、私はあらためて、いまの時代のことを考えます。

生成AIは、驚くほど巧みに言葉を操ります。励ましの言葉も、的確な指示も、場を盛り上げるための台本さえ、いくらでも生み出せる。もし「コネクトを起こすための声かけを考えて」と頼めば、AIはおそらく、私よりも整った言葉を返してくるでしょう。ふるまいの正解を、AIは知っています。

けれど、AIには、決定的に持てないものがあります。満ちた身体です。

前回、私は、感じているのは私であり、動かしているのは私だ、と書きました。内受容感覚——自分の身体の内側を感じ取るあの働きは、身体を持つ者にしか宿らないものでした。今回わかったのは、それと対になるもうひとつの事実です。「満ちている」という状態もまた、身体を持つ者にしか宿らない。疲れも、高揚も、その日の充実も、すべては一個の身体があって初めて生まれる。AIは、正しい言葉を差し出すことはできても、その言葉を満ちた状態から発することができないのです。

だから、AIは場に共振を起こせません。共振とは、身体と身体が響き合う現象でした。片方に身体がなければ、そもそも響きようがない。AIがどれだけ完璧な台本を書いても、その台本を、満ちた身体で読み上げる誰かがいなければ、場は温まらないのです。

このことに、もっとも自覚的な現場のひとつが、人を支えるケアの場だと思います。不安のなかにいる人にとって、いちばんの支えは、しばしば説明の正確さではありません。信頼できる誰かが、確かにそこに居てくれるという、ただそれだけの事実です。落ち着いた声、そばに在る気配、慌てていない佇まい——そうした身体の状態そのものが、言葉より先に、相手の警戒をほどいていく。ここで効いているのは情報ではなく、その人が「満ちて、そこに在る」ことなのです。

AIは、必要な知識をいくらでも差し出してくれます。けれど、不安な誰かの隣に、落ち着いた身体で座っていることは、できない。その場に、満ちて在ること——それは、身体を持つ人間の側に、最後まで残される働きなのだと思います。

満ちて、手渡す

長いあいだ手放せなかった問い——コネクトは、何が分かれ目をつくっているのか。その答えを、私はようやく、自分なりの言葉にできた気がします。

身体が外へ手渡していたのは、情報でも、技術でも、正しい言葉でもありませんでした。それは、「私はいま、ここに満ちている」という、その人自身の状態そのものだったのです。声や視線や笑顔は、その状態を運ぶための器にすぎません。器が立派でも、注がれる中身が枯れていれば、場は響かない。満ちた身体だけが、他者の身体と共振し、その場に熱を灯すことができる。

そして、この働きは、AIには委ねられません。言葉を整えることも、段取りを組むことも、知識を差し出すことも、これからはますますAIが引き受けてくれるでしょう。それはとても良いことだと、私は思っています。けれど、その場に満ちて在り、誰かと響き合うことだけは、身体を持つ人間の側に、最後まで残される。AIに多くを委ねられる時代だからこそ、人間に残されるこの一点が、くっきりと際立ってくるのです。

前回、私は、動かしているのは私であり、決めるのも私だ、と書きました。今回、そこにもうひとつが加わります。満ちて、他者と響き合うのも、また私である、と。内に残したものを、外へ手渡すこと。それが、この身体の、もうひとつの仕事でした。

だとすれば、自分を満たしておくということは、もはや個人的な健康管理の話ではなくなります。よく眠り、身体を動かし、心を整えて、自分のなかにエネルギーを湛えておく。それは、次に誰かと同じ場に立ったとき、その人と響き合うための、準備なのです。自分を満たしておくこと自体が、これからの時代の、人間の仕事になる。私はいま、そう考えています。

AIが賢くなるほど、私たちは、身体を通して他者とつながる、そのわずかな瞬間の価値を、これまで以上に知ることになる。画面ごしでは決して起こらない、あの共振。同じ空間に満ちた身体を並べたときにだけ立ち上がる、あの熱。それを手渡せるのは、これからも、生きた身体を持つ私たちだけなのだと思います。