暗黙知 × 生成AI

「あの人に聞けばわかる」会社の危うさ

知恵を、一人の頭から、組織の手へ

池田 武弘(closip)|

どんな組織にもいる「あの人に聞けばわかる」という人。その安心は、その人がずっとそこにいてくれる前提の上に、そっと成り立ってはいないだろうか。属人化した知恵を、敬意とともに組織へ手渡す道を考える。

どんな組織にも、「あの人に聞けばわかる」という人がいます。

込み入った案件で判断に迷ったとき、過去の経緯が誰にもわからなくなったとき、最後は決まってその人のところへ話が集まる。長年その現場を見てきた人。勘どころを心得た人。その人に一言たずねれば、たいていのことは片づいてしまう。——組織にとって、これほど心強い存在はありません。

それは、その人が長い時間をかけて、たくさんの経験を身体に蓄えてきた証です。そういう人がいる組織は、幸運だと思います。

けれど、ときどき、ふと立ち止まって考えることがあります。

その安心は、その人がずっとそこにいてくれる、という前提の上に、そっと成り立ってはいないだろうか、と。

反対に、頼る側からではなく、頼られる側の身になって想像してみます。「あの人に聞けばわかる」と誰もが頼りにするということは、裏を返せば、その人がいなければうまく進まないことがある、ということでもあります。自分が休めば、案件が止まる。自分が倒れれば、現場が困る。だから、なかなか休めない。頼られることは、たしかに名誉なことです。けれど同時に、他の誰にも代われない場所に一人で立ち続けるという、静かな重さを伴ってもいるのです。

「あの人に聞けばわかる」——この状態を、私たちはどう考えればいいのでしょうか。組織にとっての安心と、その人にとっての重さ。その両方を抱えたこの現象を、今回は少し、掘り下げてみたいと思います。

「属人化」は、善意と有能さの産物

こう書くと、「要するに属人化の話だな」と思われるかもしれません。そのとおりです。ただ、私がここで申し上げたいのは、「属人化は悪だから、早く解消しましょう」という、よくある話ではありません。

まず確認しておきたいのは、「あの人に聞けばわかる」という状態は、誰かがサボった結果でも、情報共有を怠けた結果でもない、ということです。むしろ逆で、多くの場合、それは有能さと善意が積み重なった末に、自然と出来上がっていきます。

少し、その仕組みを追ってみます。

締切が迫っている。判断に迷う。そんなとき、いちばん速くて確実なのは、詳しい人に直接たずねることです。たずねられた人は、経験があるから、たいてい即座に答えられる。その場は、それで片づく。片づいてしまうから、「なぜそう判断したのか」をわざわざ書き残す時間は、後回しになる。こうして、判断の基準は、その人の頭のなかに残り続ける。そして次に同じような場面が来たとき、周囲はまた、その人に聞く。——この繰り返しのなかで、「その人」の知恵は、「その人」に留まり続けるのです。

どの一歩にも、間違いはありません。忙しいなかで、最短の道を選ぶ。頼られた人が、誠実に応える。一つひとつは、むしろ褒められるべき振る舞いです。にもかかわらず、その積み重ねが、気づけば**「その人でなければわからない」という状態**を、組織のなかに育ててしまう。

当の本人にも、言い分があります。「長年の勘で見ているので、どう説明すればいいのか、自分でもわからない。マニュアルや手順書にまとめられる類のものではない」。前回のコラムで、私自身、自分の判断基準を言葉にできずに立ち止まった話をしました。あれと、同じことです。知恵が深く身体に染み込んでいる人ほど、それを言葉にするのは難しい。

そして、この構造は、これから確実に重くなっていきます。

総務省の調査によれば、いま日本で働く人の、およそ七人に一人が六十五歳以上です。長い経験を積んだ世代が、現場の少なからぬ部分を支えている。裏を返せば、その人たちが退いたとき、抱えていた知恵もまた、静かに現場を去っていくということです。「あの人に聞けばわかる」の「あの人」は、年々、確実に増えていく。だとすれば、これを個人の責任として片づけているうちは、話は一歩も前に進みません。

ふだんは見えない、水面下の危うさ

やっかいなのは、この状態が、ふだんはまったくリスクに見えない、ということです。

むしろ、逆に見えます。「あの人」がいるおかげで、難しい案件もするすると片づき、現場はよく回っている。傍から見れば、これほど順調なことはありません。危うさは、深く沈んでいて、水面には現れない。だから、誰も手を打とうとは思わないのです。

その危うさが、はっきりと姿を現す瞬間があります。「あの人」が、抜けるときです。

退職。異動。あるいは、思いがけない休職。そして、避けようのないものとして、加齢に伴う引退。理由が何であれ、その人がいなくなった途端、それまで滞りなく流れていた仕事が、ふいに止まります。誰も判断の基準を知らない。過去の経緯もわからない。「あの人に聞けばわかる」はずだったことが、聞く相手を失って、まるごと宙に浮いてしまう。

そして、この「受け渡し」は、多くの組織で、うまくいっていません。

ものづくりの現場を対象にした調査があります。労働政策研究・研修機構が二〇二六年に公表したもので、そこでは、技能の継承が「うまくいっている」「ややうまくいっている」と答えられた企業は、合わせて三割ほど——三三・三%にとどまりました。裏を返せば、七割近くの組織が、次の世代への知恵の受け渡しに、手ごたえを持てずにいるということです。

さらに、その中身を見ると、考えさせられるものがあります。同じ調査で、技能を継いでいくために実際にとっている打ち手をたずねたところ、最も多かったのは、ベテランに再雇用や勤務延長という形で、長くとどまってもらうこと——五四・八%でした。マニュアル化などによる「技能の見える化」の三一・二%を、大きく上回っています。もちろん、経験ある人に残ってもらうことは、現実的で、ありがたい判断です。けれど数字の並びを見るかぎり、多くの組織はいま、知恵を受け渡すことよりも、「あの人」にもうしばらくいてもらうことで、受け渡しそのものを先延ばしにしている——そう読めなくもないのです。

「あの人に聞けばわかる」という言葉は、いつも、もう一つの言葉と背中合わせです。——あの人がいなくなったら、わからなくなる。ふだんは見えないその裏面が、ある日、静かに表を向く。私たちが向き合うべきなのは、この一点なのだと思います。

具体を書き留め、抽象はAIに委ねる

では、どうすればいいのでしょうか。

前回のコラムで、私は、自分の判断基準をAIに語りかけ、少しずつ言葉にしていった話をしました。相手に説明しようとするうちに、自分でも気づいていなかった基準が、輪郭を結んでいく。AIは、答えをくれる道具であると同時に、こちらに問いを言葉にさせる鏡でもある、と。

あれは、自分一人の頭のなかを掘る作業でした。今回考えたいのは、その一歩先です。掘った言葉を、組織の中に伝えるにはどうすればいいか。

私のもとにも、私にしか判断できない、と周りから思われている領域が、いくつもあります。まさに、「あの人に聞けばわかる」の「あの人」です。そこで私は、自分の判断の軸を——何を大切にし、何を見て、どういう順で考えるのかを、AIとの対話を通して、面倒がらずに言葉にしていきました。そして、そうして形になった判断の型を、ある方法でチームが呼び出せるようにしています。

結果として、いまでは、私がその場にいなくても、チームのメンバーが、私の判断にかなり近い結論へたどり着けるようになってきています。私という一人の人間が、ボトルネックでなくなりつつある。これは、自分の価値が薄まった、という話ではありません。むしろ逆で、私の頭のなかにだけあった知恵が、組織のなかで使える形になった、ということです。

ここで、一つ、大事な点に触れておきたいと思います。

こうした話をすると、「では、その判断の型を、きれいに整理してから書き出さなければ」と身構える方がいます。「言葉にまとめるのが得意な人ならできるだろうが、自分にはそんな力はない」と。けれど、それは、順序が逆なのです。私たちがやるべきなのは、整理された抽象を、はじめから書くことではありません。むしろ、雑然とした具体を、そのまま書き留めていくことです。「あの案件では、こう迷って、こう決めた」「あのとき、この一言が引っかかった」。脈絡がなくてもいい。うまくまとまっていなくてもいい。小さな具体の断片を、とにかく外に出しておく。

なぜなら、そうやって積み上がった乱雑な具体の山から、共通する筋——つまり抽象を抜き出す作業こそ、AIがとりわけ得意とするものだからです。人間が「要するに、自分の判断基準はこういうことだ」と一足飛びにまとめようとすると、たいてい、前回の私がそうだったように、借り物のもっともらしい言葉になってしまう。けれどAIは、具体的なエピソードをいくつも並べて渡せば、そこに通底するパターンを、驚くほど的確に浮かび上がらせてくれます。抽象化は、AIに任せればいい。だからこそ、人間の側は、抽象を急がず、小さくても、乱れていても、具体を書き留めることに集中すればいいのです。

完璧な手順書は、要りません。必要なのは、繰り返し使える小さな型ですが、その型は、整った設計図としてではなく、日々書き留められた具体の堆積の中から、少しずつ立ち上がってくるものなのです。

言葉にすることは、敬意のかたち

ここまで読んで、胸のうちに、かすかな抵抗を覚えた方がいるかもしれません。とりわけ、ご自身が「あの人」の立場にある方は。

自分が長年かけて培った知恵を、言葉にして、AIに渡し、組織で使えるようにする。——それは、聞きようによっては、自分という人間を、少しずつ不要にしていく作業に思えます。実際、こうした取り組みを進めようとすると、現場のベテランから、静かな、けれど根深い反発が返ってくることがあります。「自分の存在意義が、なくなってしまうのではないか」。「要するに、代わりを用意して、私を用済みにするつもりだろう」。

私は、この反発を、少しも不当だとは思いません。むしろ、当然のことだと受け止めています。

もし、暗黙知の言語化が、人の頭のなかにあるものを効率よく「吸い上げて」、その人を身軽に取り替えるための作業なのだとしたら——それは、反発されて当たり前です。長年の経験を、単なる「抽出すべき資源」として扱われて、心穏やかでいられる人はいません。知恵を言葉にする試みが、こういう空気のなかで進められるかぎり、現場は決して心を開かないでしょう。人は、監視され、値踏みされていると感じた瞬間に、口を閉ざすものだからです。

だからこそ、私は、この一点だけは、はっきりと申し上げておきたいのです。

言葉にすることは、その人を不要にするためではありません。むしろ逆です。その人が長い年月をかけて築き上げたものを、一過性のものとして失ってしまわないために、敬意をもって受け取り、次の世代へと手渡していく——そのための営みです。知恵を言葉にしてもらうとき、私たちが向き合っているのは、「取り替え可能な機能」ではありません。その人が確かに存在し、確かに何かを成してきた、という事実そのものです。

見方を変えれば、それは、その人を「伝承者」として立てる、ということでもあります。これまで一人で抱え込むしかなかった知恵の、正当な受け継ぎ手として。自分の培ったものが、自分がいなくなった後も、組織のなかで生き続け、誰かの役に立っていく。それは、奪われることの逆——むしろ、遺すことに近いのではないでしょうか

前々回、私は「察してもらう時代は終わった。これからは語る番だ」と書きました。前回は、「語りはじめたとき、最初に見えてくるのは自分自身の姿だ」と書きました。そして今回、もう一つ、付け加えたいことがあります。

言葉にするという行為は、効率化のための手段である前に、一つの敬意のかたちなのだ、ということです。誰かの知恵に真剣に耳を傾け、それを言葉として受け取ろうとすること。それは、その人が積み重ねてきた時間への、静かな礼にほかなりません。「あの人に聞けばわかる」を、「この会社には、あの人の知恵が、確かに残っている」へ。その橋を架ける営みは、きっと、そこから始まります。